ナイチンゲールの生きた時代

先月のことですが、絵の仕事で、フローレンス.ナイチンゲールのことを調べなくてはいけなくなり、図書館でたくさん本を借りてきて、
amazonでも数冊買って調べました。伝記漫画も読みました。ナイチンゲール、凄い女性です。
知りませんでした、ごめんなさい。。と言いたくなるくらい。
看護師として最初に大きな働きをした人、白衣の天使、それくらいの認識しかなかったのですが。

ナイチンゲールは1820年、フィレンツェ生まれ。英国の莫大な資産を持つ大地主の娘として、
両親の長い新婚旅行の途中で生まれました。
名前も、フィレンツェの英語読みでフローレンスと名付けられました。
当時最高レベルの教育を受け、5ヶ国語を話し、家庭教師も逃げ出すほど優秀だったそうで、
政治家や芸術家にも知り合いが多かったようです。

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19世紀の様々な施設は劣悪な環境が多く、病院も、治すのではなく、ただ病人を収容するだけの場所でした。

看護師として活躍したのはクリミア戦争のときで、1853年から56年まで。
真夜中、ランプを持って、ベッドに伏している病人を見回り、声をかけ励ましましたが、病院を一回りするだけで6kmもあり、
周囲の人は、彼女が休んでいる姿を一度も見たことがないと証言しています。
気持ちの弱っている人々にとって、温かい言葉をかけてくれるナイチンゲールの存在はどれほど心強かったでしょうか。

このことが、新聞報道され、ナイチンゲールの知らない間に、英国でカリスマ的な人気となっていきます。

しかし現場と政府との間に意思疎通が全くなされず、物資が滞っていたために、最初の半年間、看護費用の大半は、なんとナイチンゲール自身の資産で賄われました。
食事もひどかったので、自分でフランス人コックを雇ったそうです。

これらの活動は、ナイチンゲールが当時の 特権階級にいて なおかつ自身の資産があったからこそ 可能だったのですが、だから意味がなかったとは思いません。

誰かが伝えないと そして実行しないと何も進まなかったでしょう。

庶民と特権階級との間に圧倒的な格差があった時代だからこそ、持てる人が 持たない人を救うべき。

彼女の中に間違いなく そういう気持ちがあったはずです。

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肖像画(黄色のドレス)や写真を見ても分かる通り、大変美しい人でもあったので、戦後イギリスに戻ってからは、自宅の前に求婚者の長い列ができたといいます。

1820年生まれというのが信じられず、つい最近まで生きていた人のような感じを受けました。
強い意志と実務能力、抜きん出た知性を兼ね備えた人で、現代ならば、なにか事業を起こして大成功しそうです。

無理を重ねたせいで、42歳のとき過労で倒れ、以後はずっとベッドの上の生活になりましたが、より一層精力的な活動を始めます。

戦時看護師の活動にも勝るくらい素晴らしいです。

看護についての著書をたくさん残し、病院建築を設計し、看護学校を作り、さらにクリミア戦争時、衛生状態の改善が、死亡率を激減させたという統計図表を残したことで、英国最初の統計学者の一人とも言われています。

看護師という新しい職業を生み出し、女性の地位向上にも貢献した人でした。

で、ナイチンゲールが生きた時代は、ショップで扱っているビクトリア時代の銀器と同じ頃です。

贅沢は一切しない人だったようですが、残っている写真を見ると、服は質素でも、髪をまとめるための布には可憐なレースがあしらわれ、
晩年ベッドの上でも、レースのようなスカーフを巻いています。ささやかな楽しみだったのでしょうね。

クリミア戦争時、国としては大変な時期だったのかもしれませんが、最高レベルの銀器が作られた時期でもあります。
ナイチンゲールほどの裕福な家庭に生まれたなら、子供時代はおそらく食事も銀の食器、名だたる窯の陶磁器が使われていたでしょう。
体が不自由になってから、お茶する時は、どんな茶器を使っていたんでしょうか。銀器の一つくらいは使っていたでしょうか。

ナイチンゲールの伝記は、漫画が一番わかりやすかったです。

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