へスター・ベイトマン-続き

先日の続きです。

へスターの生きた時代

へスターベイトマンの生きた時代、女性職人は他にもいました。
特に有名なのがエリザベス・ゴドフリー。彼女は、非常に優れた作品を残し、実は職人としてはへスターよりも高い評価を得ています。
残念ながら彼女が生きた時代は、へスターベイトマンよりもずっと前なので、エリザベスゴドフリーの作品を目にすることはほとんどありません。当時はまださほどティーセットと呼ばれるものも作られてはいませんでした。

1700年代には、若者たちが大都会に多く出てきます。男性も女性もいました。
地方の農家(食べていけない)からパリやロンドンのような都会に出て仕事を探すのです。産業革命の進みつつあったヨーロッパの大きな街では、仕事は山のようにありました。ろくに食べていけないような最低賃金が多かったにも関わらず。仕事を斡旋するオフィスには長蛇の列ができていたといいます。
ほとんどが身分の低い階層で、あまりお金にならない仕事をする人たちでしたが、環境によっては、クリエイティブな才能をもとに経済的な自由を手にできた女性もいました。(主に、商人や画家や職人たち)

男女を問わず、自分の才覚、あるいは美貌などで、上層にのしあがる人もいましたが、それはほんの一握り。オペラ「フィガロの結婚」の、フィガロがそうですね。

1700年代半ばごろ、どこかのお屋敷で女中として働いていた女性の言葉を記録した資料を読んだことがあります。

”仕事がきついから、早くいい相手を見つけて結婚したい。でも私の身分で、捕まえられるのは、せいぜい馬丁くらい。とても食べていけないから仕事はやめられない。そのうち子供が生まれたらもっと大変になるわ。この貧乏からは決して抜け出せないのよ…”

そのような状況の中で、仕事で成功した女性たちというのは、親や夫など、年長の家族の誰かが大きな商売をしていたり、画家や職人であったりして、その後を継ぐことができた女性たちでした。当時貿易業に携わっていた女性たちも相当数いたことが資料からわかっています。

当時の職人たち

一部の職人たちも、自分たちで作るだけでなく、製造直売、をしていたことがわかっています。
へスターも、夫亡き後、まだ一人前でない息子たちのためにも、彼女自身がしっかり働いて、稼ぐ土台を作らなければなりませんでした。親方としてHBのマークを組合に登録したのが1761年、しかし実際にHBのメーカーズマークが確認できるのは、1773年74年ごろからです。

ではその10年余りの間は何をしていたのでしょうか。

ある程度はシルバー製品を作っていたようですが、亡き夫は、シルバーチェーンを作る専門家で、さまざまな銀製品を作ることに長けた人ではありませんでした。へスターが夫から、何かを習っていたとしても、技術的に身につくものは少なかったのではないでしょうか。

資料によれば、息子たちは他の工房で職人として腕を磨き、へスターのところでは、何を作るかの企画だけして、他の工房に作らせていたのだろうと、推測されています。やがて息子たちは腕を上げて、家に戻ってきます。そしてへスターが、企画をし、何を作るか決めていたのでしょう。彼女自身の腕前はどの程度だったのかは分かりません。
しかし、今はどういう時代なのか、何を作るべきか、何が顧客から求められているのか、を見抜く優れた嗅覚を持った人だったと思います。