NHK ファミリーヒストリー、抑留生活の中のスプーン・ケンコバさん

私の祖父は、いつも大きな「銀のスプーン」をカレーやシチューの際、使っていました。

ロシアで知り合いからもらったと言っていました。亡くなってから、その銀のスプーンを調べましたが、銀ではなく、洋銀と呼ばれる合金製のスプーンで、刻印は何もありませんでした。

 

その後、変色したと言って、母があるとき、金属たわしで磨いて傷だらけにしてしまって、以来ずっと蔵の中に仕舞い込まれたままです。

 

先日、NHKファミリーヒストリーで、ケンコバさんの祖父の話がでてきて、これだ!と気がつきました。

NHKファミリーヒストリー、ケンコバ

ケンコバさんのおじいさんと同様、祖父も戦争で満州に行き、終戦と同時にソ連軍の捕虜となり、ウズベキスタンで5年近くの抑留生活を送ったからです。おそらく、昭和25年に引き上げ船で、舞鶴港に帰ってきたのも多分同じです。

抑留者の命をつないでいたのが、それぞれの大きな手作りスプーンで、それを使って、乏しい豆のスープを隅々まですくっていたと。

 

祖父がどの収容所にいたのかはわかりません。収容所では週に一度、わずかながら酒とタバコが支給されました。

祖父はどちらも嗜まなかったので、見張りの兵隊に、そのまま譲っていました。見張りはロシア人ではなく朝鮮の人で、日本語が少しできたそうです。

祖父はその人からスプーンをもらったそうなのですが、父からの情報では、日本に引き上げるときにもらったというのです。

この辺りのことはよくわかりません。でも祖父はそのスプーンをとても大切にしていて、家族も皆、祖父のスプーンとして一目置いていました。その頃は、本当に銀のスプーンと信じていましたからよけいに。

 

作業で出た残りの金属のかけらなどで作った貴重なスプーンが、記念館に展示されていました。いかに大切なものだったかがこの番組でよくわかります。。当時、現地で抑留生活を送っていた人の誰もが、スプーンの話をしていたのもすごく納得できました。

 

ウズベキスタンの首都タシケントは、首都として学校や道路、橋、劇場など、都市を作るために日本兵がたくさん動員されました、祖父も橋と学校を作ったと言っていました。

その後、大きな地震がタシケントを襲いましたが、日本人が作った建物はビクともしなかったそうです。抑留者の中に、優秀な建築技術者がいたのだろうと言われています。

貧しい食事だったようですが、現地ではメロンやブドウ、すももなど、果物が甘く美味しかった、帰りの列車から見た真っ白な天山山脈の美しさも忘れられない、もう一度見たいと祖父はよく言っていました。

 

番組再放送はこちら。NHKファミリーヒストリー、ケンコバ